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新しい時代が到来しました。
2012年から 世界は大きく変わり始めました。
大いなる主体が地上を去り
永遠の対象であったものが 邪な誘惑に負け 偽の主体に立つことにより 韓国はもうすぐ消滅します。
カゴメ カゴメ 後ろの正面はだれなのでしょう!!!!
 

文鮮明 韓中日近現代史/人物


文鮮明 韓中日近現代史/人物


2012. 7. 16. 21:19


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文鮮明


1935年


4月17日[1](水曜日)、数え年16歳の文鮮明は霊的に出会ったイエス・キリストから“メシアとして果たせなかった使命を果たしてほしい”と頼まれたとしている。彼はその責任の重さに何度も断ったが、最終的に受け入れたという[2][3](アメリカのテレビのインタビューでは「イエスはヘブライ語なまりの韓国語で話した」と答えている[4][5])。


1943年


2月10日(陰暦1月6日)日本併合下にあった朝鮮の平安南道 の安州郡の信里(現在は北朝鮮統治区域)で後に文鮮明の妻となる韓鶴子(ハン・ハクジャ)が誕生。
12月 23歳の文鮮明が18歳の崔先吉(チェ・ソンギル、教団では「真の母」[6]としての第一候補だったとされる)と婚約(年齢は10代で、篤実なキリスト教徒であり、洗礼ヨハネの使命を果たす女性という条件で文鮮明は選んだという。お見合いだったとも言われる)。


1944年


年初 鹿島組(現・鹿島建設)の京城(ソウル)支店に電気技師として就職。
5月 崔先吉と「聖婚式」[7]を挙げる(「血分け」を行う混淫派とも言われる李龍道(イ・ヨンド)派の「イエス教会」の幹部である李浩彬(イ・ホビン)の司式により行われたとも言われる)。
10月 文鮮明が日本留学時の抗日運動の事実が発覚し、京畿道(キョンギドン)警察部によって連行され、拷問を受ける。


1945年


2月 文鮮明が半死状態で釈放される。
4月28日 崔先吉との婚姻届を提出。
10月 京畿道の坡州のイスラエル修道院 の金百文(キム・ペグムン)[8]のもとで学ぶ。京城の永登浦区域所(現:永登浦区)上道洞の礼拝所で補助引導師を務める。金百文が自分の弟子たちに降りた「文鮮明がソロモン王である」という啓示を信じないで受け入れなかったため、翌1946年の4月に文鮮明はそこを去る[3]。


1946年


6月6日 文鮮明は妻と3ヶ月の息子、文聖進(ムン・ソンジン)を置き去りにして、朝鮮キリスト教布教の中心地であったソ連占領下の平壌へ行く(神が用意した神霊集団を統合し直すためとされる。それらの集団は「混淫派」や「霊体交換派」と呼ばれる「血分け」を行う者達だとも言われる)。
朴雲女(パク・ウンニョ)と共に布教を始める[9]。家庭集会を中心に活動し、弟子が増えていったが、キリスト教会からは異端視される(牧師の訴えと李承晩(イ・スマン)のスパイ嫌疑(風俗紊乱の容疑だったとも言われる)で大同保安署に3ヶ月収容される。朝鮮労働党当局の拷問の末、解放されたという。
6月11日 金百弼(キム・ウォンピル、三弟子の1人)が弟子となる。


1948年


4月7日 文鮮明は、「社会秩序を乱したという社会紊乱罪で[10]、重労働5年の実刑を受ける。興南(フンナム)収容所[11]に収監される。
文鮮明が収容所に送られてきた朴正華(パク・チョンファ)を弟子にする。


1950年


10月 朝鮮戦争の最中、国連軍による爆撃の中で解放され、大韓民国の臨時首都となっていた釜山(プサン)府(現:釜山広域市)へ避難する。


1952年


5月10日 文鮮明が1年をかけて、自らの教えをまとめた『原理原本』を書き上げる。 同日、高麗神学校(現在の高神大学)の学生でキリスト教の伝道師、姜賢実(カン・ヒョンシル)が文鮮明を訪ねて来る。後に入教。
12月 済州島から李耀翰(イ・ヨハン、り・よはね)牧師が訪ねて来て、入教。


1953年


12月 ソウル大学出身の劉孝元(ユ・ヒョウウォン)が入教。



1954年


5月1日 ソウル北鶴洞(ポクハクドン)391において「世界基督教統一神霊協会」を設立する。最初の会長は李昌煥(イ・チャンファン、後に脱会)
文鮮明は妻子ある立場で、教団に入教(同年1月7日)したての延禧(ヨンヒ)専門学校{後の延世(ヨンセェ)大}の学生、金明熙(金明姫、キム・ミョンヒ、当時24歳)と関係を持つ。


1955年


年初め 金明熙が下宿していた「梨花女子大学校」の音楽科講師、梁允永(ヤン・ユニョン)の家を出て、釜山で暮らす。
3月24日 当時のエリート校であった「梨花女子大学校」の教授や生徒が次々と統一教会に入信し、大学は異端の信仰をやめないことを理由に、崔元福(チェ・ウォンボク)・金永雲(キム・ヨンウン)・梁允永ら5名の教授・助教授や14名の学生免職.退学分とする。延禧専門学校でも教授が免職処分、2名の学生が退学処分となる。この時期、文鮮明が「血分け」をしているとの噂が広まり、教会に対する社会的批判が高まる[9]。
7月4日 警察(治安局特殊情報課)が文鮮明を、兵役法違反、女子大生を3日間不法監禁したという容疑で逮捕。後日、劉孝元、金百弼、劉孝永(ユ・ヒョウヨン)の弟子3人も逮捕される。
8月17日 金明煕が日本に密入国した直後に東京で、文鮮明の子、文喜進(ムン・ヒジン、男) を産む[12] (教団では「真の母」としての第2候補であったが、外国で滞在中不幸な事件に巻き込まれたため、その立場を続けられなくなり自ら身を引いたとしている。[13] (教団は金明煕は1998年の合同結婚式で霊界のソクラテスと夫婦になったとしている)。
真の母は20歳を超えてはならないという事で この内容は破たんしています。
 8人の本妻の息子と 4人の婚外子が必要であるということです。


10月4日 ソウル地方院の結審公判で、文鮮明は無罪放免となるが、劉孝元は罰金を科せられ、他の2人は懲役8か月となる。
10月7日 文鮮明は出監直後に本部教会をソウルの龍山区青波洞(チョンパドン)1街71番地に移転する。
12月 文鮮明の現在の妻、韓鶴子の母である洪順愛(ホン・スネ)が入教。


1956年


1月8日 崔先吉との協議離婚届を提出。12年近くの夫婦生活に終止符を打つ[14]教団は「最も愛する妻を犠牲にして弟子たちを愛していかれた文先生の心情を崔女史は理解することができず、自ら“真の母”の立場を放棄した」としている。 [15]。


1957年


韓国軍の陸軍中佐の朴普煕(パク・ポーヒー)が入教。
8月15日 教理解説書「原理解説」を刊行。
1957年に 崔先吉第1母と離婚



1958年


6月 韓国の西川勝{韓国名は崔翔翼(チェ・サンイク、または崔奉春(チェ・ボンチュン))1985年に脱会}が宣教のために、国交のない日本に密入国。不法入国で逮捕された後、逃亡した西川は各地を転々と逃げ回った。
同じく密入国していた金明煕をかくまっていた品川の霊能者、志賀如心の所にも身を寄せたという[16]。全国モーターボート競走会連合会(後の日本船舶振興会)の会長(笹川良一が密入国で逮捕された西川の身元引受人を買って出たが、文鮮明は「日本の陰謀だから、帰国するように」と指示したため、西川は韓国へ帰国[16]。
9月 アメリカへ宣教師、金永雲(キム・ヨンウン)を派遣。


1959年


10月2日 東京都新宿区にあった「雄鶏舎」という時計店の2階の部屋で西川勝が2名の参加者に対し日本で最初の礼拝を行う。この後、教会は東京都中野区高円寺に移動。
中央大学法学部在学中の澤浦秀夫が入教。
澤浦の伝道で、佼成学園第一期生、宗教部長を経て立正大学を経て、将来の立正佼成会の中核を為す、と目されていた哲学者 小宮山嘉一(*渡)が入教。
ここから、会員数が急激に増え、小宮山が所属していた立正佼成会第57支部の支部長の長男・慶応義塾卒の久保木修己(立正佼成会会長秘書)などが泊り込みで原理講義を受講、入教する。


5月頃 教会は入教していた東京都渋谷区東北沢の熱心なクリスチャン平福家の土地を譲り受け、センターを建設した。この頃、金明熙が4年ぶりに韓国に戻る。文鮮明は息子の喜進(ヒジン)だけを自分の戸籍に入れ、女性幹部の家で育てさせたと言われる[17]。
7月20日 全国120か所で、夏季40日間の開拓伝道が行われる。
8月15日 教理解説書『原理解説』が発刊される。


1963年


立正佼成会の庭野日敬会長が、創価学会対策、安保対策のため青年部員達を統一教会特別修練会に参加させる。[9]。立正佼成会会長秘書であった久保木は2年後の1965年に日本の初代教会長になる。


韓鶴子との結婚(聖婚式)以降


1960年


4月11日 40歳の文鮮明は17歳の韓鶴子(ハン・ハクジャ)と結婚。これを『聖書』の「ヨハネの黙示録」に書かれた「子羊の婚姻」(イエス・キリストの結婚)と意味づけ、「聖婚式」と呼ぶ。


1963年


児童舞踊団「リトルエンジェルス芸術団」を創設。
6月26日 文鮮明が『天勝号』の進水式を行う。船舶事業をスタートさせるが、負債が膨らみ、事業は失敗する[17]。
10月4日 教団設立から9年目にして韓国で財団法人として認可される 。文化観光部宗教課に登録された公式名称は「世界基督教統一神霊協会有志財団」。


1964年


日本で東京都の認証を受け正式に宗教法人として認可される。
7月 大学生伝道を目的とした「全国大学原理研究会」を設立。
文鮮明の側近、 朴普煕がアメリカのワシントンD.C.に「韓国文化自由財団」を設立し、韓国文化自由基金(KCFF)という寄金を募る。初代名誉総裁は当時、韓国の民主共和党の議長を務めていた国会議員の金鍾泌(キム・ジョンピル)。


1966年


韓国で機械製作会社「統一産業」を創設し、銃の製造を始める。代表理事は文鮮明の又従兄弟の文成均(ムン・ソンギュン)。
1月10日 韓国においても「原理研究会」を設立。
5月1日 韓国において、『聖書』の奥義を解明したとされる教理解説書『原理講論』の初版が出る。


1967年


大学のキャンパスで伝道され信者になった学生や青年達が学業や職業を捨てて献身することで家庭問題が多発し、「親泣かせ原理運動」などと社会的な批判を浴びる。
教団に入信した子供たちを持つ親たちによって「原理運動対策父母の会」が結成される。日本において特定教団の活動に反対する最初の活動。
7月 文鮮明が来日し、反共団体の設立に向けて、山梨県の山中湖(本栖湖)畔の全国モーターボート競走会連合の本栖研修所(「水上スポーツセンター」)で児玉誉士夫、笹川良一、護国団の市倉徳三郎と会合[9][18]。
10月2日 日本においても『原理講論』の初版が出る。(ただし、「再臨論」の中の韓国中心主義と天皇批判の部分は訳出されていない。)


1968年


1月1日 文鮮明の妻の韓鶴子が7年間の試練を乗り越えて、真の女性として完成し、この地上に初めて“神の家庭”が立ったとして文鮮明が「神の日」を宣布。
1月13日 韓国で反共主義の政治団体である「国際勝共連合」を設立。
2月 「幸世物産」(現:「ハッピーワールド」)が韓国から空気散弾銃2千500丁を輸入する[19]。その後、空気散弾銃を猟銃としての所持が認めないように法改正がなされ、競技用としての輸入を警察庁に打診したが、空気散弾銃の競技という実態がないとして輸入の許可は却下された。
4月 自民党 の元首相岸信介、笹川良一、児玉誉士夫らが発起人として、日本でも「国際勝共連合」を結成。会長に久保木修己統一教会会長が、名誉会長に笹川良一が就任。
2月22日 436組の合同結婚式が行われる。久保木修己が日本人として初めて参加。
7月7日 江利川安栄が東京都小平市の朝鮮大学の正門前で共産主義を批判する勝共講義を始める。
10月5日 教団関連の商事会社、「統一産業」株式会社(「幸世物産」から商号変更、現:「ハッピーワールド」)(前:「幸世物産」 渋谷)がエアライフル2,500丁を輸入し、教団の信者がセールスに歩いて売る[20]。
11月 「統一教会」の学生組織である「原理研究会」のメンバーが「鋭和B3」という散弾銃を一般の銃砲店を通さずに会員だけで1,000丁所持したいと許可申請を出したが、警察庁保安課が「単なるスポーツ用の銃とみるには不自然」と判断し、既に許可済みだった3,050丁分の許可が取り消される。


1969年


8月1日 文鮮明と金明煕との間の子、14歳の喜進が、開拓伝道に行く途中で列車から転落死(忠清北道梅浦駅)。


1970年


「統一産業」が輸入禁止された散弾銃に代えて、韓国から「鋭和3B」という単発銃の輸入を始める[21]。
4月9日 久保木会長がパイプを持っていた岸信介元首相が 「統一教会」本部で東京地区の信者約4,000名に対して国際情勢などを語り、教会員を激励[22](当時の写真)。
5月1日 文鮮明が来日し、日本で初めて合同結婚式が開かれる(22双のうち10組は既成祝福)
7月13日 東京神宮前の東郷記念会館で「赤色帝国主義に抗議する集会ー囚われたる欧州諸国民の週間・日本大会」が開催される。「国際勝共連合」 が生長の家、「世界反共連盟」日本支部等の団体と共に参加。
12月 祝福家庭婦人を3年間の開拓伝道に送り出す。韓国民族が「統一教会」を受け入れなかった失敗を取り返すためだとされる。


アメリカ進出以降


1971年


1月3日 文鮮明がイエス・キリストを韓国の女性信者、張貞順(チャン・ジョンス)と祝福したという。(1972年、1973年にも同様のことが語られる。)[23] [24] [25] [26]。
年初め 韓国で「一信石材」を設立。(霊感商法で販売された大理石壷や多宝塔の置物などを製造)
1月8日 「リトルエンジェルス芸術団」の日本講演を当時の皇太子夫妻(今上天皇と皇后)が鑑賞(当時の写真)。
2月13日 『読売新聞』で「でたらめ街頭募金追及。“本家”が厳重抗議、「北方領土」のでっち上げ団体、金の使い方も不明」との記事が出る。国際勝共連合を母体とする「北方領土復帰推進連盟」という団体で募金運動を行っていることに対し、51団体が加盟している全国組織の「北方領土問題連絡協議会」が厳重に抗議。募金で集まった金の使途を明らかにせよと迫ったが、勝共連合側は明確な回答をせず。
5月25日 教団の第2事業部が高麗人参茶及び高麗大理石壺の販売等を業とする「幸世商事株式会社」になる[27]。
3月26日 統一教会系の輸入会社「幸世物産」(のちのハッピーワールド)が韓国から大量の空気銃を輸入して来たことが国会で追及される[21]。
12月6日 韓国において、高麗人参製品を中心とした製薬会社「一和製薬」(後に一和と改称)を設立(文鮮明が薬学博士号を持っていた古参幹部、洪性杓(ホン・ソンピョ、36家庭、洪蘭淑の父)に500ドルを手渡し設立を命じた)[28] 。
「全国大学原理研究会」を設立した小宮山嘉一(元立正佼成会)が脱会
12月18日、文鮮明夫妻がアメリカ進出を目指し渡米。ワシントンD.C.に到着。


1972年 年頭標語 : 「統一戦線守護」


2月3日~3月6日 文鮮明がアメリカの7大都市で講演。
笹川良一が「反共運動から手を引く」と「国際勝共連合」名誉会長を辞任。共産圏とのスポーツ交流を優先したいことが理由とも言われる。
11月22日 教団関連企業、「世界のしあわせ」(後のハッピーワールド)」の営業部長でキャラバン隊のボス的存在であった曹又億萬(ソウマタオクマン、日本名は大山高誉、43双 2005年 8月 12日死去)に1971年8月27日から1972年5月27日にかけて、教団の幹部3名と共謀し、小切手2億3千万円を韓国へ不法に持ち出した外為法違反容疑で逮捕状が出る。海外逃亡したため国際指名手配となる。兵庫県警は総額で6億9,414万円を捜査の対象にしていた[29]。
11月 文鮮明がニューヨーク州の郊外にあるウエストチェスター郡のタリータウンに部屋数25の豪邸を62万5千ドル(当時のレートで約1億8千万円)で購入[28]。
12月 古田元男が「幸世商事株式会社」代表取締役に就任。
12月8日 神戸で統一教会幹部3人{石井光治(「勝共連合」渉外部長)、増田勝(教団の伝道師)、藤本三雄(教団の伝道師)}が外国法違反容疑で起訴されたが、「額面2億5千万円の小切手を不法に持ち出したとされる相当の嫌疑が有することは否定できないが、有罪とするのに十分な証拠を欠く」として無罪になった。捜査の過程で統一教会の経済活動の実態が明らかにされる[30]。


1973年


米国でCARP(「原理研究会」)創設。
日本、イギリス、ドイツ、フランス、オランダ、イタリア等から伝道師が米国に集い、「世界統一十字軍」という伝道機動隊が編成される。その責任者には、各国の43三双(1969年の43組の合同結婚式の参加者)の信者が、日本部隊の責任者には神山威が立つ。
10月1日~ 文鮮明が、「キリスト教の危機と新しい希望」というタイトルで、全米21都市で講演会を行う。最初のカーネギーホールでの大会は、ホールの外で、反対デモが連日起こる。
11月30日 文鮮明がウォーターゲート事件で糾弾されているニクソン大統領を擁護する声明(「許せ、愛せ、団結せよ」)を『ニューヨーク・タイムズ』と『ワシントン・ポスト』に出す。
12月18日、文鮮明の子供たちが、韓国から米国のニューヨークの文鮮明の邸宅(ベルベディア)に移住。
12月24日 「アメリカ国民に訴えた文鮮明師の声明」をサンケイ新聞に意見広告として掲載。


1974年


1月 アメリカに観光ビザ等で入国していた教団の信者、582名(281名は日本人)が、伝道修習生というビザへの切りかえを申請したが、アメリカの移民帰化局は、本当の目的は花売りや新聞売り等の経済活動や募金活動等にあると判断し、資格変更の申請を却下する。
3月5日 韓国で「リトルエンジェルス芸術学校」(後の「仙和芸術学校」)を開校。(教団が所有し運営するが教師と学生のほとんどは一般人で、カリキュラムに宗教はない)[28]。
4月4日 北朝鮮へ嫁いだ日本人妻の帰国実現を目指す「日本人妻自由往来実現運動本部」(後に「~実現運動の会」と改名)を結成。代表の池田文子の本名は江利川安栄。日本人妻からの手紙を出版。(機関誌『望郷』(1974年)や『鳥でないのが残念です』(1979年))
4月12日 韓国の『東亜日報』で韓国のキリスト教界が合同で統一教会に関する意見広告を出す。「文鮮明は、人類の血管にヘビの血が流れている、これが罪の遺伝であり、そのため文鮮明の聖なる血を受けて血分けをしなければならないという混淫の主張をしている」という内容[31]。
5月7日 東京の帝国ホテルで、『希望の日』晩餐会と題する文鮮明の講演会が行われる。(名誉実行委員長は岸信介) 福田赳夫大蔵大臣は「アジアは今、偉大な指導者 を得ることができました。その指導者こそ、そこにおられる文鮮明先生です」と賛美し、韓国形式の挨拶で抱擁を繰り返す。安倍晋太郎、中川一郎、保岡興治、中山正暉、石井公一郎、(ブリヂストン副社長)、笹川了平(『大阪日日新聞社長、笹川良一の末弟)、笹川陽平(富士観光社長、笹川良一の三男)らの他、40名ほどの小学校、中学校、高校の校長達が出席。
5月9日 埼玉県の狭山湖畔で大会が開かれ、全国から7、8千人の信者が集まる。文鮮明は自分にはお金がないから、みんなで高麗人参茶を売るようにと信者に指示し、5月から8月にかけての90日間で、400箱売るという“誓約書”を書かせる[32][33]。
9月18日 文鮮明がニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで「希望の日」講演会を行う。2万数千名が集まる。
11月14日 岸信介元首相が統一教会を訪問し、文鮮明と会談(当時の写真)。


日本で経済活動が中心になって以降


1975年


経済一本化方針が出され、統一教会所属の経済活動従事者がハッピーワールドに吸収される[34]。
1月1日 日本において、日刊紙『世界日報』が創刊される。
1月 信者になった娘を持つ本間てる子が「原理運動反対父母の会」を結成。
7月 教団関連の商事会社「統一産業」株式会社(渋谷)が銃砲販売専門の子会社「アングス」を設立。統一教会の会員が35の直販店の経営にあたり、年間約1万丁を1丁2万円で輸入、主に信者向けに販売する。翌1976年に『朝日ジャーナル』(12月号)が報じる[20] 。
9月20日 アメリカで「統一神学校」が開校する。(バリータウンにあるカトリックの教育団体クリスチャン・ブラザーズから買収した[35])
世界127か国に宣教師を派遣。


1976年


2月 旧ティファニービルを240万ドル(約9億円)で買収[35]。
「 ニューヨークセイロモータース」設立。後にシカゴ、ヒューストンでも営業。
4月 旅行会社「世一観光株式会社」を設立 。
5月 マンハッタンのニューヨーカーホテルを500万ドル(約15億円)で買収[35]。世界宣教本部や原理研究会・日本統一教会のニューヨーク・オフィスがあるほか日本から派遣された信者が多く住む[35]。
同年後半 朴正煕(パク・チョンヒ)政権下の韓国において統一教会に対する批判が解禁になり、「リトル・エンジェルス劇団」の海外公演が禁止される[36]。
9月6日 米国に滞在している原理運動「統一教会」の外国人信者(大半は韓国人および日本人)700人に対し、連邦判事が「宣教師見習」としての資格を認めないとの裁定を下したため、移民局は国外追放の手続きに必要な措置を直ちにとるよう関係機関に指示する。
9月18日 文鮮明がワシントンDCで講演会。50万人が集う。ユダヤ教とキリスト教と「統一教会」が一つとなって、世界の宗教を統一すべきと訴える。
11月15日 衆議院議員選挙の公示日直前に、宇都宮徳馬議員を批判した記事を載せた「国際勝共連合」の機関紙『思想新聞』(同年11月13日付号外)が数十万枚配られるという組織的な選挙妨害が行われる。
翌12月の27日、宇都宮側は8人の連名で、警視庁に選挙妨害として告発する[37]。
12月18日 警視庁は教団の信者たちが一般家庭を訪問して、一和の高麗人参濃縮液を高血圧、がん、肩こり、肝臓などに効くという薬効を謳って販売していたことを薬事法違反として、新宿区、杉並区、大田区の3店舗を捜査。
12月31日 アメリカで日刊紙『ザ・ニューズ・ワールド』を発刊。


1977年


反共の国、台湾で統一教会の活動が禁止される。
1月27日 「原理運動被害者父母の会」が内容証明郵便で内閣総理大臣福田赳夫宛に統一教会への対策を求める陳情書を送る。
1月下旬 数カ月前から内偵が続けられていた韓国の「一和製薬」に一斉捜査が入り、社員40人が連行、20人が拘束され取調べを受ける。
2月3日 東京都の北区の議会で、北区の教育長が統一教会の信者の伝道部隊である「世界統一十字軍」に対して推薦の言葉を書いたことが議会で問題になる。教育長は、教育上共鳴する面があったので書いたが、宗教団体とは全く知らなかったと謝罪。
2月 「一和製薬」が59億ウォン(約36億円)を脱税した容疑で幹部5人が拘留・起訴される。治安本部特別捜査班によれば、1972年から原料購入費の偽装支出、偽装増資などによって脱税をした疑いがあるとされる。
専務・洪性杓(36家庭)ら5人が逮捕され、日本に逃亡したとみられる金元弼(キム・ウォンピル)社長も起訴される。
鹿児島教会の信者たちが高麗人参茶を、効能を謳って販売していたことが、薬事法違反に問われる。
教団は東京都庁に、高麗人参茶販売を法人の収益事業として許可してもらうように相談したが、規模が大き過ぎる等の理由で、許可されず[38]。
2月7日 衆議院予算委員会で、日本社会党の石橋政嗣書記長が、「原理運動被害者父母の会」の「世界基督教統一神霊協会の日本に於ける不法活動を調査し・摘発し・処分し・禁止を求める請願書」、に基づき質問。福田赳夫総理は「実態調査をした上どうするかを判断する」と答弁[39]。
2月24日 サンフランシスコの裁判所で、5人の親が教団に入信したわが子を30日間手元におく権利を求めた訴えを認める。教団は直ちに控訴したが、同年4月3日の サンフランシスコ上級裁判所も親達の訴えを認める判決を下す。統一教会側はカリフォルニア州高裁に控訴。『東京新聞』が報道 [39]。
4月4日 アメリカの下院の外交委員会(フレーザー下院議員を委員長とする国際機構小委員会)は「米韓関係の調査について」の中間レポートで 「統一教会」の政治工作を報告。
4月6日 衆議院の法務委員会で日本社会党の西宮弘が福田赳夫大蔵大臣と統一教会の関係を追及。政府側は福田蔵相の文鮮明への賛辞の記録はないととぼける。当委員会の委員長上村千一郎も参加していたが、「記憶がない」ととぼける。
4月11日 東京法務局が教団本部で、橋本総務部長、副島嘉和公報企画部長、佐川部長と会い聴取を行う。入信を強制してはいないか? 修練会について、親、親族、先生との音信や面会、街頭販売と教団の関係、入信に当っての親子の意見対立、「原理研究会」と教団の関係、資金源についてなどに関して質問した。
ニューヨーク州が「統一教会」が集めた年間150万ドル(約3億円)の募金のうちで本来の目的に使われているのは7 %程度しかないと認定して、教団の募金を禁止する。『ワシントン・ポスト』が報じる[39]。
5月4日 神奈川県警環境課と横浜・寿署は、「ガンに効く」など言って、医薬品ではない高麗人参エキス(一和)を大量に売っていた横浜市の教団関連の会社とその責任者を薬事法違反容疑で摘発、身柄を横浜地方検察庁に送検する。新聞でも報道される。 5月18日に責任者と会社に罰金が科せられた。 [37]
5月7日 文鮮明とウォーキートーキー(小型無線機)を持った護衛を含む教会員10名(2名は日本人幹部)がニューヨーク市北部のバード・カレッジという大学の構内に不法侵入した疑いで逮捕される。『毎日新聞』が報じる。(同上)教団側は不法侵入ではなく観光、滝を見ていたと説明した。保釈金を積んで釈放される。


1978年


この頃から、先祖の霊が苦しんでいるとか、先祖の因縁を説かれ、高価な印鑑、壺、多宝塔等を購入した多くの者が、国民生活センターや各地の消費生活センターに苦情を寄せるようになる。
3月 「幸世商事株式会社」を「世界のしあわせ株式会社」に商号変更
3月23日 アメリカのフレーザー委員会、米下院国際関係委員会国際機関小委員会において、教団のフロント組織と見られる韓国文化自由財団とKCIAの関係を全面否定していた朴普煕が、厳しい追及によって、 担当の金相根駐米大使館参事官からワシントン郊外の自宅で3000ドルの現金を受け取ったことを認めたと新聞で報道される。 朴普煕は女性信者{江利川安栄、(777双)}をソウルに呼び寄せ、その3000ドルを手渡したという。朴は「彼女にKCIA の金を手渡したのは、あとにも先にも、この一回だけだった」と語ったという[40]。
4月 江利川安栄がコリアゲート事件に関連して、3000ドルを朴普煕を通して受け取ったと記者会見で告白する。
5月12日 衆議院決算委員会で日本共産党の安藤巌は「原理講論」の原文には日本語版には訳されていない重要な記述があることを示し、福田赳夫首相の姿勢を質す。
6月22日 朴普煕がフレーザー下院議員を名誉毀損罪で訴える。
9月 統一教会に対する批判者、卓明煥(タン・ミョンファン)新興宗教問題研究所所長が、「一部の統一統一教会離脱者たちが提供した資料には多くの誤りがあった」として、謝罪文を『朝鮮日報』ほかソウルの5大新聞に掲載([2])。
10月1日 統一教会出版局が「日本共産党の宗教迫害」と題する冊子を発行。“「文鮮明が血分けと称して混淫していた」とか「統一教会がKCIAによる政治的謀略組織である」といった宣伝は全くの事実無根であり、日本共産党の宗教弾圧政策のはしりである”などと記載([3])。
11月1日 アメリカの下院の外交委員会(フレーザー下院議員を委員長とする国際機構小委員会)は「韓国の対米関係に関する調査」と題する報告書(フレーザー報告)を発表。文鮮明が主宰する統一教会その他多数の宗教・非宗教団体が実質的に一つの国際組織を形成していること、文鮮明組織の目標の中には文鮮明とその信者によって統合される世界政府の樹立が含まれていることなどを報告。
米国統一教会は、フレーザーらに対し、損害賠償訴訟を提起。
フレーザー報告の内容を『読売新聞』が、夕刊一面トップで報道。久保木会長が中曽根康弘を通じて読売新聞の渡辺恒雄に猛抗議。
「国際勝共連合」がスパイ防止法制定3000万人署名国民運動を展開。
11月 原理運動による社会的なトラブルの対策のため、参議院議員の市川房枝らの呼びかけにより、「原理運動を憂慮する会」が発足。早稲田大学総長の村井資長が会長に就任。神学者浅見定雄らが参加。
11月 「世界のしあわせ株式会社」を「株式会社ハッピーワールド」に商号変更。


1979年


「国際勝共連合」がスパイ防止法制定促進国民会議の設立に加わり、都道府県会議を全国で設置し、地方議会における同法案制定請願運動を行う。
米国のニュージャージー州に魚類の卸会社「神州」(1987年に「ニューヨーク フィッシュハウス」に改名)」を設立[35]。


1980年 年頭標語 : 「家庭教会、天国基地」


文鮮明の指示で経済組織が教会組織の上に立つ体制になる。桜井設雄伝道局長が古田元男の部下になる。
1980年代前半に 日本で「国際機動隊」が結成される。マイクロバスに乗って、全国を周り、戸別訪問で、難民のための募金や、珍味、印鑑、靴下、ハンカチなどを戸別訪問で売って回る。
「しんぶん赤旗」・元特派員でジャーナリストの萩原遼が書いた『淫教のメシア・文鮮明伝』が出版される。
10月20日 海洋訓練による教育を行うオーシャン・チャーチを開始。
12月 布教が認められていないアフリカのタンザニアで笹本正樹宣教師が闇ドル売買のおとり捜査にひっかかり、逃げようとしたところを警官に射殺される。統一教会初の殉教者となる。


1981年 年頭標語 : 「家庭教会は私の天国」


イギリスにおいて、統一教会が全国紙『デイリー・メール』が統一教会は若者を洗脳し家庭を破壊するカルトであると書いた記事を名誉毀損で訴えていた裁判で、6か月に渡る審理の末、高等法院の陪審は「デイリー・メール」の記事は信頼できるとの判断を下す。そして教会を「政治組織」であるとし、政府に対し慈善団体としての免税特権廃止を検討することを要請した。統一教会は160万ドル(約3億円)の裁判費用の支払いを命じられる。英国史上最も長く、費用のかかった裁判となった([28]、p144-p145)。
イギリスの内務省が文鮮明の入国申請を却下。
日本の法務省は文鮮明の入国申請を却下。
『原理講論』原文にあり、日本共産党から韓国中心主義として批判された箇所を日本語版にも追加掲載。
5月4日 文鮮明がアメリカ人の愛国心を高める目的で製作させた映画「インチョン! 」がアメリカで公開されるが、興行成績がふるわず、わずか数週間で打ち切られる。
5月16日 文鮮明の長女、誉進(イエジン)と洪珍輝(ホン・チンフィ、洪蘭淑の兄)が祝福(教団の結婚)される。マッチング(ペアを決める)の翌日に結婚式が行われたが、祝福関連の儀式の多くは省略されたという。同時に530双のマッチングが韓国で行われる。久保木哲子会長夫人(当時)が日本人150名の写真を韓国に持っていき、その中で25組の韓日カップルが誕生。 [28]
11月8日、韓国ソウルで第10回「科学の統一に関する国際会議 (ICUS)」会議で文鮮明は全世界を高速道路で結ぶ「国際ハイウェイ構想」と「日韓トンネル」建設を提唱。


ビデオ・センターでの伝道体制以降


1982年


4月 自己啓発のためのビデオセンターという体裁での伝道体制が始まる。全国15か所。その後も各地に開設していった。
4月と6月 EC(欧州共同体)会議が、統一教会の活動に対する対策に関する決議案を文教委員会に付託。
1、メディアによる統一教会の活動に対する摘発。2、免税特権や公益法人としての利益を与えないこと。3、青少年への脅威についての調査報告を求める。などの内容[41]。
5月 アメリカで新聞『ワシントン・タイムズ』を創刊。文鮮明の側近、朴普煕が初代社長に就任。(前年に、米国で唯一の保守系新聞であった『ワシントン・イブニング・スター』紙が廃刊になったことに危機感を覚えた政府が、保守系日刊紙の創刊を財閥など打診したものの、採算が取れないことを理由に断られていた中で、統一教会系列のメディア会社、「ニューズ・ワールド・コミュニケーションズ」社がそれに応じた)
8月6日 日本の『世界日報』が侵略を進出と文部省が教科書検定で書き変えさせたというマスコミ報道が誤報であると論じる。
秋頃 この頃から教団名を隠した伝道方法を取るようになる。
10月 韓国の女性月刊誌『女苑』(ニョウォン)11月号で、「微笑の翼、紫の鶴」と題して文鮮明の夫人、韓鶴子(ハン・ハクジャ)の特集記事が掲載される(日本語訳)。
10月 ビデオセンターの設置について、東京都総務局行政部指導課に相談したところ、ビデオ受講時に受講生から料金を徴収することは収益事業とみなされるので、規則にないことは行ってはいけないとの指導を受け、1983年1月の責任役員会議において、公式にはビデオ受講施設の設置は行わないことを決定した([4])。
10月14日 韓国ソウルで6,000組の合同結婚式が行われる。「天運教」(後の「天地正教」)の教主川瀬カヨが独身祝福を受ける。


1983年


文鮮明が突如、1945年から1985年8月15日までの期間が「荒野40年路程」であると発表し、最後の三年路程の決断式を行う。
10月1日『世界日報』事件。教会色を押さえ一般紙を志向した副島嘉和編集局長らの路線を乗っ取りと考えた「国際勝共連合」理事長、梶栗玄太郎ら信者達約100人が世界日報社に押しかけ、副島らを暴力的に追い出す。記者達が殴られ、多数の負傷者が出た。警官80人が出動。以後、『世界日報』は教会色を強める。副島は同月5日に辞任に追い込まれ、7日には統一教会を除名される。
家庭を持つ基準についての不公平の是正を求めて教会本部に提出された「しあわせの手紙」が1610双の間で出回り、内部で大きな問題となる。


1984年 年頭標語 : 「祖国創建」


公認教会制度を設けが、各公認教会を組織に入れる[42]。
1月3日 「愛勝日」宣布。 文鮮明は、自動車事故で亡くなった次男の文興進(ムン・フンジン)が霊界で全権大使になったと宣言。イエス・キリストより高い位置にあるとされる。文興進が亡くなった理由は信者達が責任を果たせなかったことの身代わりとなった」とされた。(1988年1月2日)
1月12日 青森地方裁判所弘前支部における刑事裁判で、教団の信者らが、主婦に対し、ホテルの部屋で約9時間にわたって、「中絶した子供や死去した夫を成仏させないと、今の子供や夫に大変な不幸が起こる」などと脅かして、1,200万円を献金させた行為が恐喝罪に当たるとして信者3人に有罪判決が下る[41]。信者の一人は、未亡人の女性に御主人の霊が乗り移ったと称して殴りかかった。
2月20日 文鮮明は亡くなった次男、興進と側近の朴普煕の娘、朴薫淑(パク・フンスク、当時21歳)と霊界結婚させる。 アメリカの法律では認められないので、文鮮明は朴薫淑を養女にした。
6月 この月発行の『原理講論』から「聖書索引」がなくなる。
6月2日 統一教会の告発記事の掲載を取りやめるようにという教会側からの要請を拒否していた元『世界日報』編集局長副島嘉和(37歳 777双)が、“韓国の空手を使った”男からメッタ刺しに遭う。(同年8月1日 自ら発行する『インフォメーション』で「犯人は勝共連合の空手使いだと思う」と述べた。)『読売新聞』、『朝日新聞』、『毎日新聞』の各紙が報じたが、『世界日報』は記者が病院にかけつけていたが、この事件を報道せず。他紙もその後、続報はなかった。この事件は犯人を特定できないまま、時効を迎えた。
6月10日「世界日報」社を追放された副島嘉和と井上博明(元「世界日報社」の営業局長、元四国ブロック長)が連名で書いた告発手記(「これが統一教会の秘部だ」)を掲載した『文藝春秋』1984年7月号が発売される。教団が韓国中心主義である事、霊感商法のマニュアルや資金の流れなど、教団の内幕を暴露。
勝共連合を反共主義運動の同志と考えていた民族派や右翼が、副島手記にある、久保木修己会長が、天皇の身代わりで、文鮮明に拝礼しているという内容に激怒し、久保木会長に質問状を出す。3ヶ月後に久保木は、副島手記の内容を否定する回答をした。
久保木勝共連合会長の講演会、「平和と安全を守る七大都市大会」が行われる。大阪大会では、右翼や民族派が「勝共運動は、文鮮明の手先」「世界を股にかけるペテン師の金集め」などの批判ビラを会場周辺に張り、「大会粉砕」を訴えた。
7月20日 アメリカで文鮮明が脱税の罪で懲役1年6ヶ月と2万5000ドルの有罪判決を受け、コネチカット州ダンベリー刑務所に入獄。弟子の神山威も(偽証罪)で共に入獄。
9月14日 この日から7回にわたり『朝日ジャーナル』が「原理運動追及」のタイトルで統一教会批判キャンペーンを掲載。教団の抗議に対して、ジャーナル側は訂正記事を出すことを拒否したが、統一教会広報部長(当時)坂詰博の反論のために4ページ誌面を提供する。
11月 「世界原理研究会」が文鮮明の長男、文孝進(当時22歳)を会長として発足した[43]。
ニューヨーク州マンハッタンに日本食レストラン「黄花(きいろいはな)」を設立する[35]。


1985年


日本宣教の開拓者である西川勝がニューヨークの文鮮明に脱会の意向を伝えに行くが、弟子を通じて会わないと断られ、静かに教会を去って行く(教団の拝金主義に呆れたと後に述懐している)[16]。
1月 民族派団体一水会代表の鈴木邦男が『朝日ジャーナル』2月1日号で、「勝共連合は民族主義運動の敵だ――文鮮明王朝建設に利用される日本の若者」と題して、統一教会の反共は方便であって、実際は共産主義的であり、文鮮明は日本人の贖罪意識を利用して、文王朝を目指していることなどを指摘。民族主義運動家たちが、統一教会を仲間とみなすことに警告を発する。
日本の『世界日報』が昭和天皇在位60年・戦後40年を記念して昭和天皇の終戦直後の御巡幸の足跡をたどったシリーズ「天皇御巡幸」を掲載。
4月16日~ 米国牧師会議において、米国の牧師たちが統一運動のルーツを訪ねる韓国・日本ツアーが始まる。1988年7月まで、延べ7845名が参加。
6月6日 アメリカのレーガン政権が、イランへの武器売却代金を共産化したニカラグアに対する反政府ゲリラ「コントラ」援助に流用していたことが暴露され、議会がイランへの武器販売および「コントラ」への資金提供に反対していた最中、文鮮明は『ワシントン・タイムズ』紙で、「コントラ」に対し、1400万ドル(約35億円)の援助することを発表。
『朝日ジャーナル』が統一教会の批判記事を載せた際に、朝日新聞東京本社に1週間で4万6000本の抗議電話がかかり、回線がパンクした[44]。
6月22日 「日本カトリック司教団」が信者に向けて「世界基督教統一神霊協会に関する声明」を出す。統一教会がキリスト教でないこと、関わり合いを持たないよう注意を促す。
タイにおいて、信者になった学生の両親が、「統一教会は、子供に物を売るようにだましたり、両親を尊敬しないように子供を洗脳したりしている」として、公安警察に被害届けを出す。タイの伝道拠点「統一文化センター協会」を始める計画は頓挫する。
タイ政府は国の治安と国民の道徳をかき乱すおそれがあるという理由で、統一教会の活動を禁止する。
「日本人妻自由往来実現運動の会」が日本人妻問題を描いた映画『鳥よ翼をかして』を製作。
9月 文鮮明の先妻(崔先吉)による息子(文聖進)を筑波大学が研究員として受け入れていたことが発覚し、波紋を呼ぶ。
年末 文鮮明が妻の韓鶴子と共にアメリカのベルベディアで「世界皇帝」 と「世界皇后」 の 即位儀式を行う。幹部たちと一部の信者だけに参加が許された秘密儀式で、写真撮影も禁じられたという[28]。


荒野40年路程終結以降


この頃、文鮮明は1ヶ月100億円の献金を達成するように、信者に強く迫った。“TV100”という合言葉で呼ばれた(TVはTotal Victoryの略)。


1986年


4月25日 合同結婚式で結ばれた男女の婚姻の無効を認める判決が最高裁判所で初めて確定。
『朝日ジャーナル』12月5日号で「霊感商法」の追及キャンペーンを始める。朝日新聞社の藤森研編集委員(53)の自宅に嫌がらせ電話が1日百数十本かかった[45]。
7月 衆参同時選挙で、霊感商法のトーカーであった信者、阿部令子(6000双)が無所属の新人として大阪3区から立候補するが、7万5,700票で次点となり落選[35]([5])。また、「宗教新聞」役員の黛敬子が埼玉2区から、世界平和教授アカデミーメンバーの細野純子が愛知6区からそれぞれ出馬するが、落選に終わる。
8月 「世界日報社」が『朝日新聞』の意図的偏向報道を告発する『朝日新聞の「犯罪」―誰がために情報は操作される』を出版。
11月、12月 TV100(ひと月に100億円の献金)が達成される。文鮮明は更に、TV300(やはり300億円の献金)を指示したとも言われる。
12月23日および翌1987年3月25日 通産省(現「経済産業省」)が霊感商法への対策への一環として、消費者トラブル連絡協議会において、霊感商法に係る相談事例の手口を公表し、参加11団体に対して注意喚起を要請[46]。


1987年


3月2日 統一教会は東京都総務局行政部指導課から霊感商法問題につき信者に対して指導するよう指示を受け、「ハッピーワールド」に対して、委託販売についての自粛を要請。
3月 元信者1人が全国初の「青春を返せ訴訟」を札幌地方裁判所に提訴。
3月19日 通産省が杜団法人日本訪問販売協会の幹部に対し、同協会の会員になっている霊感商法に係る株式会社ハッピーワールドと株式会社「世界のしあわせ」に対し、倫理綱領違反がある場合には同協会として処分を行うように指示[46]
4月 有田芳生が『朝日ジャーナル』の「霊感商法」批判キャンペーンに加わる。
4月6日 通産省が霊感商法に関わる株式会社ハッピーワールドと株式会社「世界のしあわせ」に対し事情聴取及び訪問販売法の遵守について指導。この日を含め3回指導[46]
4月30日 「霊感商法」に関わる株式会社ハッピーワールドと株式会社「世界のしあわせ」が日本訪問販売協会を退会する[46]
5月5日 朝日新聞東京本社に、2日前に起きた阪神支局襲撃事件で使われた銃弾と同一の薬莢2個を同封した脅迫状が届く。文面には「とういつきょうかいの わるくちをいうやつは みなごろしだ」と書いてあった
教団と霊感商法との関係を追及している長崎市の地域ミニコミ「ちゃんぽん」が電話攻撃に屈せずに記事の連載を続けていたところ、「いよいよ覚悟しろ」という旨の脅迫が留守番電話に吹き込まれた後に、自宅の裏の薮から空気銃で狙撃された。大事には至らなかったが、家族を避難させることを余儀なくされる([6])。
5月15日 国会で警察庁刑事局保安部生活経済課長が霊感商法について「各種の悪質商法の中でも最も悪質なものだ」とし、「厳正な取り締まりを行っていく」旨を答弁。[47]。


霊感商法自粛宣言以降


5月1日 ハッピーワールドが関連業者に「1987年3月末で『霊感商法』と誤解されるような販売は止めるように」と通達する。厚生省、通産省、国民生活センター にも以後、自粛するという旨を報告。
5月 「霊感商法」被害の救済のために全国の約300名の弁護士による「全国霊感商法対策弁護士連絡会(略称「全国弁連」)」が結成される。
6月3日 大阪府立労働センターで「霊石愛好会」の集会が開催。ワイドショーなどで霊能者として出演をしていた慈雲法師(本名:青木慈雲)が悟りや奇跡を呼ぶとして多宝塔の功徳を説き、「霊感商法」を擁護する。
6月6日 「霊石愛好会」が東京で「霊石感謝、真実の声、全国代表者大会」を開催。
8月「霊感商法」批判に対抗するために、教団の婦人信者を集めて、霊石(壷や多宝塔)を授かったことを感謝しているという「霊石愛好会」を作る。「霊石に感謝する集い」を各地で開催したり、自らの道場で壷・多宝塔を授ける。(販売という形でなく、献金という形でお金を受け取る)[7]
アフリカのジンバブエのクレオパス.クンディオナ (26) に文鮮明の亡くなった次男,文興進が霊的に再臨したとして、文鮮明の公認の下で、幹部や信者らに罪の告白をさせるために1987年から1988年にかけて世界を回る。
日本共産党から『原理講論』の日本語版に、天皇批判と韓国中心主義に関する部分が訳出されていないと批判を受ける。(2年後の1981年度版から載せる。)
奈良市で結成された「原理運動に反対する被害者家族の会」の旗揚げ集会の際に約30名の集団が押しかけ、会合を流会させる。集団は、自分たちの立場を明らかにせず、教団もその集団との関わりを否定したが、その集団の中に被害者家族の会会長の家族であった信者が混じっていたことが確認された。被害者家族の会の代表者は、職場に嫌がらせの電話が殺到し、職場をやめることを余儀なくされる([8])。
DIA(アメリカ国防情報局)が「金鍾泌(キム・ジョンピル)は、韓国での大統領選に際して、文鮮明から資金的、組織的支援を受けていた」と報告。


1988年


1月7日、8日 霊感商法における多宝塔等の販売担当者を対象とした「全国トーカー修練会」が開催。前年に霊感商法を自粛することを教団側が公表していたにもかかわらず、教団の伝道局長、桜井設雄が信者たちに経済活動を奨励する講話を行う[48]。
4月 文鮮明の長男、文孝進がニューヨーク市のオールド・ニューヨーカー・ホテルで自らの不品行(ドラッグ、飲酒、女性問題、自殺未遂等)を教会員の前で告白し、涙で懺悔する([28]、p74-p76)。
霊石愛好会が霊感商法報道をしたNHKに「霊石を授かって感謝している人の声も公平に報道すべき」と抗議に押しかける。
3月3日 前年11月に宗教法人としての認可を得たばかりの「天運教」を、「天地正教」と改名する。「霊石愛好会」の組織をそのまま引継ぎ、本尊を弥勒菩薩に変える。最終的に弥勒の化身は文鮮明夫妻であると明かすという方法を取る。
5月頃、クンディオナが「祝福には行かなくてもいよい」、「統一教会とは別組織を作る」などと、反教会的発言をするようになる。
中国に「パンダ・モータース」(朴普煕会長)という自動車工場をつくるために、莫大な献金が要請される。信者は家、土地まで担保に入れて借金するものまで出た。広東省恵州に1,500万坪の土地を借りて10億ドル以上の投資で、年間30万台の自動車を作る計画だったが、この計画は後に頓挫した。
7月 阿部令子(6,000双)が自民党の渡辺美智雄の秘書となる。
7月4日 東京の女性が「天地正教」の不法行に対して、100万円の損害賠償を求めて、「天地正教」の土地、不動産の仮差し押さえの申請していたが、東京地方裁判所は仮差し押さえを認める決定を下す。
10月3日 「世界統一国開天日」を宣布する。オリンピックを通して、北朝鮮とキューバを除く共産国家が一つとなり、中国とソ連が「真の父母」(文鮮明夫妻)と一つとなったことで、世界統一国の実現への道が開かれたという。(2004年10月3日第17回 世界統一国開天日より、「天宙統一国開天日」に名称変更)
10月30日 6,500組の合同結婚式が韓国の龍仁市(ヨンインし)にある「一和」の工場で行われる。このとき、「交差祝福」と言われる韓日、日韓のカップルを初め、国際カップルが多く誕生した。信者は渡韓の際に、封筒に50万円ほどの現金を持たされて運んだ。
12月12日 三重県尾鷲市で、珍味売りのマイクロ隊がドライバーの居眠りが原因でガードレールに激突する事故を起こす。乗員7人の内2人が即死。生存者5名中3名が離教した([49]、p46-p80)。
霊感商法を批判するミニコミ紙を発行していた長崎市の広告業者「ちゃんぽん」が、激しい嫌がらせ電話を受け、長崎県弁護士会人権擁護委員会に人権侵害救済の申し立てをする。弁護士会は調査の結果、統一教会によるものと判断し、教団に人権侵害行為をやめるよう勧告書を送る([9])。


1989年


9月~10月 ソ連の言論人が韓国と日本を訪問。
11月27日 全国で3番目の「青春を返せ裁判」が岡山地方裁判所に提訴される。
12月26日 申四勲(シン・サンフン、ソウルのセエサク教会の牧師、統一教対策委員会委員長)に対し、世界基督教統一神霊協会と文鮮明らに対する名誉毀損罪等で懲役10カ月、執行猶予2年の有罪判決が出る。P286[50]申牧師は控訴した。1994年7月5日に、ソウル刑事地方院第4部は、申牧師の批判した内容は決して虚偽事実ではなく、文鮮明を誹謗する目的も全くなかったのに事実誤認で有罪にしたとして、原審判決を破棄し、申牧師を免訴する([10])。


1990年


2月 阿部令子(6000双)が大阪3区から衆議院選挙に立候補する。選挙戦中盤で自民党の公認を受けたが、2度目の落選となる。(7万5000票で次点)
3月5日 台湾で約15年振りに、統一教会の伝道活動が公認される。
4月10日~13日 モスクワで第11回世界言論人会議が開催。文鮮明はゴルバチョフソ連大統領と会談し、支援を表明する。文鮮明はゴルバチョフに「特別な贈り物」だとして、「霊感商法」で売られていたのと同様な龍の彫り物のある大理石の壷を手渡す。
教団の教えに反したことを理由にジンバブエの宣教師、神吉秀明とクンディオナを除名処分にする。
6月25日 フランスの最高裁判所で統一教会フランス支部会長を脱税で有罪とした高裁判決(1998年1月26日)が確定。宗教を隠れ蓑に新聞販売などで上げた利益を帳簿操作で隠していた[41]。
7月22日 文鮮明の長男、文孝進が日本で、「統一教会全国学生一万人大会」を行う。
10月 熊本県の波野村(現「阿蘇市」)への進出に関し、オウム真理教が国土利用計画法違反事件で強制捜査された件を機関誌『中和新聞』で、国家権力により、宗教弾圧であるとして、オウム真理教を全面擁護する。


1991年


5月 教団本部の土地、建物に韓国の第一銀行(現SC第一銀行)の13億4千万円の根抵当権が新に設定される。(以前にも同じ不動産に52億4千万円の根抵当権が設定された。)
7月1日午前7時、韓国漢南国際研修院において、文鮮明が「七・一節」を宣布。神の祝福はもはや永遠なるものとして揺るがないという意味を込めて「神様祝福永遠宣布式」とも言う。父母の責任時代が終わり、子女の責任時代が始まることによって、新しい時代へ転換したとされる。
8月 文鮮明がソ連内の3千名の青年・学生にソ連反改革派のクーデターに対するデモを指示。
8月15日 『世界経典』を出版。世界宗教の普遍的な価値的内容を集約したものとされる。
8月27日 文鮮明が「世界平和宗教連合」を創設。人間における体の立場にある政治を心の立場にある宗教が主体となって導いてゆくという関係を作るべきだとされる。
8月28日 文鮮明が「世界平和連合」を創設。前述の体に当たる政治が神様を中心としたものとなるべきとされる。
9月16日~25日 韓鶴子が日本で巡回講演。
9月26日 長年アメリカの責任者であった神山威が日本統一教会の会長に就任。


「還故郷」の摂理以降


9月「還故郷」の摂理。文鮮明は信者に献身生活を辞め、それぞれの故郷に帰って活動するように指示。
11月30日、反共で知られる文鮮明が韓国政府の許可を得ないで電撃的に訪朝。
12月6日 金日成(キム・イルソン)と会談。35億ドル(約4,400億円)もの莫大な経済支援を約束する反面、自分の故郷を聖地とした公園や教会の建設や国営の普通江(ポトンガン)ホテルの経営を引き受けることなどを取り付けた。(韓国政府は一時、この無許可訪朝を国家保安法違反として逮捕の動きを見せたが、方針を転換し、処罰しなかった。)マダム・パクこと朴敬允(パク・キョンユン)の仲介があったことを教団も認めている[51]。



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