morison30000のブログ

新しい時代が到来しました。
2012年から 世界は大きく変わり始めました。
大いなる主体が地上を去り
永遠の対象であったものが 邪な誘惑に負け 偽の主体に立つことにより 韓国はもうすぐ消滅します。
カゴメ カゴメ 後ろの正面はだれなのでしょう!!!!
 

2015年 からの日本の動き

日本は 信仰面において 熊本 横浜 北海道のキリスト教信仰の土台の上に成り立って来た 同志社大学京都 新島じょう 八重というけれど
人材は熊本バンドであった!!!



サンクチュアリーを見ても 柔術 山登りブッシュクラフト 棒術 農業など 
熊本バンドがさきがけ 英語 伝道 活動 信仰面においても 熊本のサンクちゅありーメンバーは抜きん出ていた。


いわゆる 日本内のサンクチュアリーを見ても
北海道 それと 東京 で熊本と見る 明治時代の霊界も 北海道 横浜 熊本であったように 種はまかれたとみる。


日本全体を見た場合 
 信仰クリスチャンのベースのある壮年壮婦と 左翼的な統一原理主義的な壮年壮婦とが存在し そこで私達元献身者との関係性が存在する。
1991年 777 1800双の氏族メシアの失敗により お父様は 黒船的新島襄を日本にお父さまは送り込んだ これが神山会長であり その意味が理解できず 桜井家や小山田 古田は 責任を放棄し 撃滅 その次に藤井会長 1994年 お父様の命令を無視し
彼らも霊的銃撃を受け激死 その後 2っに分けられた統一教会は 心と体に分けられ
神側サタン側に分けられた これが 1995年であった!!!
それから21年 日本も選択を迫られている 評議会制を選ぶか 選挙による中心者制度を選ぶかである。
今だ 翻訳された王様の映像の視聴者を見ても 150名に満たない ということは どうあがいてもこれを3ッに分けたとしても 日本サンクだけで 50名ほどの方しか興味を持って王様の映像に参加していないことが理解できる。
昨日 ある日本サンクの中心的な方と話した中で これはまずいでしょうという内容を聞いたそれは 御父様の御言葉と王様の御言葉の度合いであろうと思う。
これは阿南さんの氏族メシア云々という内容を見ても理解できるように
そこまで王様の子女教育 地域伝導 クリスチャン伝道よりも
お父様が絶対重要事項であって この地の事情の整理もお父様の御言葉によって整理しようとしていることだと思う。
この地は 後継者として 二代王と三代王権がミクロとなる 大陸云々というよりも
日本は支部である。
それと その方の中心的御言葉がお父様の御言葉ならば
韓国語礼拝も 英語礼拝も 必要ではなく 王様の御言葉を必要としていない江利川会長の命令だけに従う働きバチの集団になれということであり。
おいおい!!!!実質六年目で 日本サンクチュアリーがここまで陥ったという事と
神奈川の姉妹に 会長が 新女王 もしくは新卑弥呼に立てようとする時点で
日本は完全な ミツバチマーヤの世界に突入してしまうという事であった!!!
王様の御言葉を重要視していない 学ぶ必要はない!!!それが 日本サンクチュアリーの陥った立場となる!!!
江利川会長はっきりさせましょう!!!! この地に責任を持つ者の言葉を重要視しますかそれとも お父様の衣を着た金の子牛 日本の宇宙の母 江利川ヤスエですか???
ヤスエ!!やす やす 83 ヤミ ヤミヤミ 良子―――良子――― 夫の話は聞いたの??同時性 同時性 どうせいっ一ちゅうねん (アボジごめんよ!!!頭の上で)
aboji
原理本体論


金明大の時代 たくさんお金を貢いだ芦屋壮婦の方達が金明大霊の子連合に組み込まれ


文京区でも 魂を金明大壮婦篤志家庭婦人が誕生したその方が サンクチュアリー連合


評議会議員に君臨し続けている。


多分 王様の御言葉には一切相対せず 損得だけ 自分の感性に従って 得を選び飛びまわっている 娘も息子も祝福を受け 基台は 立った!!!!


怖いものはない!!!!


天を恐れぬ者たちよ!!!!来るべき裁きの時を待て!!!
日本は、1995年から お父様主管の 宣教団と そうではない 金孝南主管の清平解怨集団にわかれ どんどんクリスチャンや 原理的に分析判断してきた方達が 信仰を失いひっくり返されて行った!!!
 元の清平は キリスト教をベースにした 信仰を貫く お父様を援護射撃する団体だった
しかし 金孝南入り込むことで アボニム イエス様  キリスト教とは関係のない 意味不明な銭ゲバ団体へと変貌した。
それは特に 虐げられて来た 日本の壮年壮婦がお父様よりも金孝南を目の前にいる救い主に選んだからだ!!!!
牛耳れると感じた韓国人牧会者人たちの動きも早かった!!!
それにつられて 私の知る 777双の姉妹や1800双の兄弟姉妹たちが続々と魂を
金孝南に売り渡した!!!
あるクリスチャンの姉妹も清平に陶酔することで 日本の中心摂理である会社の社長が
 崩れ崩壊 乗っ取られた 原因はクリスチャンの姉が魂を率先して売ったからである。
古田社長をお父様の前に 選んだジュンチルの母親と同じとみる。


これと同じ現象が 日本サンクチュアリー内で行われているということが感じられた!!!
簡単に言えば そういう事であります。
どんな時でも金孝南の妹は 後継者である王様の命令には従わず サタンの誘惑に負けていく!!! サンク内にも金明大 の娘 金栄輝の孫がいるとは サタンは巧妙だ!!!と感じてしまいました。


tora

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マルタは日本サンクチュアリーです。
マリアは 世界のサンクチュアリーメンバーです 理解できますか???
実績も重要です。
しかしふときずいたとき 家庭連合時代 劉正玉 江利川姉時代の強制 ノルマ信仰に追い詰められていると気が付いたときどうされますか??
自由と責任でまだ元気だった方達もすでに 中心者でもボケはじめ
青年は発言したくても発言できない!!! 初期かかわった子たちの大半は 普通の家庭人になっていく。
日本人にとって マリアは馬鹿で マルタは信仰者 これが結論でしょう。
アボジが王様を通してミラクルを起こそうとしている しかし日本では起こせない
7年前の信仰姿勢のままだからです。 
【聖書が教える】復活したイエスを見た〇〇%は信じなかった【80対20パレートの法則】聖書(ルカ10:41-42, マタイ28:17)
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熊本バンド
―明治の若きサムライたち
奨励 若林 裕〔わかばやし・ひろし〕
奨励者紹介 同志社大学神学部嘱託講師
同志社女子大学学芸学部嘱託講師
桃山栄光教会牧師
はじめに


 同志社は三つの柱によって築き上げられたと言われています。それは新島襄、アメリカン・ボード、そして熊本バンドです。これをラーネッドは「三つの源流」と言いました。
新島襄の創業力、アメリカン・ボードの経済力、そして熊本バンドの人材力、この三つの力が同志社を立てた。このどれ一つを欠いても今の同志社はなかったと思うのです。本日は、特にこのなかの熊本バンドについて採り上げ、その根幹でもある誕生の前史を含む経緯、同志社に来る前の彼らの意義、さらにはそのころの時代状況の一端についても学びたいと思います。
 まず「熊本バンド」のバンド(band)という言い方ですが、普通、バンドといえばブラスバンドとかロックバンドといった音楽のバンドを連想しますが、これはそうではありません。バンドという言葉にはものを束ねる一つの帯といった意味があります。一隊とか一団、群れ、グループのことです。一九世紀のアメリカではそのような言い方が大学内のキリスト教グループなどに名づけられました。イエール・バンドとかアイオワ・バンドとかいう言い方で、たとえば「自分たちはキリストに従ってこう生きる」「海外のどこそこへ布教伝道をする」といった一つの決意の下に一体感をもって集まった集団、信仰者グループを指しました。ですから、ここではバンドを信仰的一体感をもって立つ「信仰者の結盟」ということと理解してください。ただし、「血盟」ではありません。盟約の徴に血判を押した幕末の土佐勤皇党などとは違いました。熊本バンドの人びとは自分たちの決意を表す文書に署名をしました。
 さて、最初に熊本バンドの人びとの時代について少しだけ考えておきたいと思います。彼らが生まれたのは一八五〇年代後半から一八六〇年代の初めです。
まさに幕末です。それから青少年期を過ごすのが明治の初め、この時代を担った人びとは、立場の違いも越えて共通の課題がありました。
それは、「日本という国を一つの独立国としてどのように諸国に対峙させていくか(万国対峙)」ということでした。
幕末においては、そのための国づくりが「公武合体か、王政復古か」と問われていたことは、ご承知のとおりです。また明治初期においては、それをどのような国の仕組みをもってなしていくのか、憲法をもった国なのか、全くの君主制の国でいくのかといったことが重要な課題となりました。
国の形の根底を変革し、新たに形成し、己の国の未来を生み出すということです。
言葉で言うのは簡単ですが、まさに生みの苦しみのなかに置かれた命がけの作業です。個々人にとっても時代が大きく変わること、そこに希望もあるでしょうが、それにまさる不安もあります。今まで築き上げてきた自分の人生が一変する。輝ける未来ばかりではない。自らの足元が崩れさるようなリスクもあるのです。ちなみに大政奉還(一八六八年)、廃藩置県(一八七一年)を「御一新」と称しますが、ならば、その明治の維新とはいつまでだったのか。士族の最後にして最大の反乱、西南戦争のあった一八七七年、琉球藩を沖縄県とした一八七九年、あるいは一八八九年の帝国憲法発布の時までなどが言われます。どれを取るにせよ、熊本バンドの若者たちが学んだ時代は、その激動の明治維新だったわけです。
 そういうわけで本日のテーマに「サムライ」という片仮名書きの言葉を用いました。それは熊本洋学校の先生、キャプテン・ジェーンズの評伝―ノートヘルファー(F. G.Notehelfer)の記したAMERICAN SAMURAI Captain L. L. Janes and Japan の邦訳書名『アメリカのサムライ L. L. ジェーンズ大尉と日本』から借用致しました。時代の大波のなかで、大きな志と信念をもって学び、生きた熊本バンドの若者の姿に「新たな時代のサムライの心」が示されている。さながら、彼らのその「武士の魂」とは、キャプテン・ジェーンズを通して受けたプロテスタント精神と言えます。従って、そんな彼らを語るうえで、まずは明治にプロテスタント・キリスト教が日本へ入ってきたところから語りたいと思います。
三大バンド(横浜バンド・熊本バンド・札幌バンド)


 さて、三大バンド、横浜・熊本・札幌についてお話しします。
プロテスタント・キリスト教の日本への到来、その流入のルートは、大きく言って二つありました。一つは幕末に来日したアメリカ人宣教師によるもの、そしてもう一つは西欧の近代化を学ぶため新たな学校に雇い入れられた「お雇い外国人教師」を通したものです。
ちなみに熊本バンドは後者の「お雇い外国人教師」ルートですが、全体像を掴むために、前者の幕末に来日したアメリカ人宣教師たちの働きについて少し触れておきます。
日本史を勉強した人は、フルベッキ、ブラウン、へボンといった人たちの名前を聞いたことがあると思います。
彼らがやって来たのは一八五九年のこと。
前年に日米修好通商条約が結ばれ、翌年、横浜などが開港された。それと同時なのです。
日本は既に名目上は開国しています。
しかし、まだ切支丹禁制の時代。
日本人に直接伝道はできないので、彼らはまずは居留地内で外国人のための礼拝に仕えつつ、日本語の習得に励みました。
少し後に、フルベッキは長崎で日本人たちの先生になるチャンスを得ます。
ブラウンは横浜で塾の先生になります。
この二人を派遣したのはアメリカの「オランダ改革派教会(Dutch Reformed Church)」です。
また、アメリカの「長老派(Presbyterian Church)」の宣教師、へボンは医師の資格があったので、日本人に対する医療活動も行っています。
なお、これは皆さんご存じかと思いますが、へボンはヘボン式ローマ字の発案者として有名ですね。
また英和辞典の編さん、さらにはブラウンらと共に聖書の日本語翻訳などもしています。


 彼らより二年ほど遅れてバラというアメリカのオランダ改革派宣教師が来日しました。
彼は横浜で塾を開きます。そのバラのもとで塾生が信仰を誓い、洗礼を受け、そこに日本最初のプロテスタント教会、「横浜公会」が形成されます。
一八七二年です。明治政府が太政官布告によってキリスト教禁止の高札を撤去する一年前のこと、まだ禁制下に成立したことになります。
これが、日本における最初のバンド、キリスト教信仰者の結盟、「横浜バンド」なのです。当初のメンバーは十一名、なみなみならぬ決意だったと思います。
なお、この横浜バンド、押川方義、井深梶之助などという人たちが指導的役割を担っていきます。そして、彼らより若干年少で少し後に加わった植村正久という人がいますが、この人は、この流れの代表的存在として知られる有名な牧師さんです。
 次にお雇い外国人教師のルートについてですが、言いましたように我が熊本バンドがそうです。
それと札幌バンドです。まず、札幌バンドについて概観しておきます。一八七六年に開校した札幌農学校(現在の北海道大学)に、クラーク(William Smith Clark)が赴任します。あの“Boys, be ambitious.” のクラーク博士です。彼は農学の先生として八ヵ月ほど在職しました。彼は宣教師ではありません。しかし、その帰国の前に「イエスを信ずる者の契約(Covenant of Believers in Christ)」なる書面を学生たちに提示しました。クラークの感化の下、農学校の一期生全員がその書面に署名しました。これが札幌バンドの始まりです。
原文は英語ですが、その日本語訳を読んでみます。
「下に署名する札幌農学校の学生は、キリストの命に従いてキリストを信ずることを告白し、且つキリスト信徒の義務を忠実に尽して祝すべき主即ち十字架の死を以て我等の罪をあがない給いし者に、我等の愛と感謝の情を表し且つキリストの王国拡がり、栄光現われ、そのあがない給える人々の救われんことを切望す。故に我等は今後キリストの忠実なる弟子となりて、その教えを欠くることなく守らんことを厳かに神に誓い且つ互に誓う。(後略)」(大島正健『クラーク先生とその弟子たち』新池書房 一九九一年 一一三頁)。「あがない(贖い)」という言葉が気になりませんか。罪や過ちの償いといった意味の言葉ですね。キリスト教信仰においてこれは、自分にある罪、少しずれるかもしれませんが自分のエゴイズムみたいなもの、それに対する神からの罰をキリストが十字架において自分に代わって担ってくれた。
簡単に言うと、これが、そのキリスト教の言う贖いなのです。自分たちはこの贖いに相応しく生きたいという、このような前置きがあって、次に伝統的なキリスト教信者の守る約束事として、「この誓約により一個の団体を組織し」、「毎週一回以上共に集りて聖書或は宗教に関する他の書籍雑誌を読み、若くは宗教上の談話をなし、また相共に祈祷会を開くことを誓約す。」(一一六頁参照)と記された敬虔な誓約書です。
 これにサインした、その一期生たちの熱い信仰の情熱は継承されて、翌年入学の二期生たちも信仰を誓いました。その中には後の無教会の指導者・内村鑑三や国際連盟事務局次長として活躍した新渡戸稲造―『武士道(The Soul of Japan)』の著者、前の五千円札に描かれている人と言った方が分かりやすいかもしれません―などもいたわけです。ちなみにこの内村や新渡戸さらにはクラーク博士の三人は、共に新島襄や同志社と少なからぬ縁があります。新島襄はアーモスト大学一年の時にクラークの授業を受けています。一八七七年、札幌農学校での働きを終えたクラークがアメリカ帰国の折に、わざわざ同志社英学校に立ち寄っています。当時、同志社英学校の学生で熊本バンドの一人だった亀山昇は、クラークがその折に新島を「マイ・ボーイ」と呼んでいたと印象的に記していました。
 また、内村鑑三について言えば、彼と新島は、共に本籍を上州(群馬県)とするもの同士です。しかも両者とも江戸の藩の屋敷で生まれています。内村は高崎藩、新島はご存じのように安中藩です。新島の勧めで内村はアーモストに学びます。さらに新島は内村の結婚や就職のことで彼と関わった経緯もあります。ただ二人、タイプが少し異なっていたようです。後に内村は新島に対する批判的な言葉も残しております。なお新渡戸稲造と新島ですが、新島が二度目の欧米訪問の折、一八八五年五月六日ジョンズ・ホプキンズ大学を訪れた際、そこで留学中の新渡戸と出会い、彼に学校案内をしてもらっています。「五月六日 先生、ジョンス・ホプキンス大學總長ギルマンを訪ふ。午餐の際トーマス・キング・後藤・新渡戸及び政治學科の學生等も招待をうけて同席す。此日新渡?の案内にて大學内を見物す」(森中章光編『新島襄先生年譜』同志社校友会 一九四二年 九一頁)。そのような新島と個人的な関わりだけではなく、新渡戸は一九一八年から五年にわたって同志社理事の職を担っております。ただ国際連盟の仕事のため、理事会の出席は物理的には不可能だったようですが、別途、幾度か同志社に来ています。以上のように、同志社は札幌バンドとも少なからぬご縁がありますね。
熊本バンドの定義


 さて、いよいよ本題の熊本バンドに話をすすめます。熊本バンドの概略を頭にいれておきましょう。『熊本バンド研究』に熊本バンドの定義がこんな風に記されています。


熊本バンドとは何であるか。この呼び名(通称)は、明治四年から九年までのあいだに熊本洋学校でゼーンスの薫陶を受け、花岡山上でキリスト教を奉じこの教えを日本国に宣布しようと決意した人びとを中心とする一団が、洋学校閉鎖後明治九年秋同志社に転校して、創立早々の同志社でそのすぐれた学力と粗野ではあるが活発旺盛な気風とによって「非常に目立った特異な存在」を示したとき、当時同志社に在職中の宣教師たちがこの一団を呼び習わしたものであるといわれる。


(篠田一人「日本近代思想史における熊本バンドの意義」三頁)


どうでしょうか。そのすごさが伝わってきますね。


 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店 二〇〇二年 三三三頁)には、神学部の本井康博先生が、熊本バンドについてこう書かれています。


横浜バンドや札幌バンドなどと並ぶ日本プロテスタント史の源流の一つで、日本組合基督教会の支柱。熊本洋学校のジェーンズの感化を受けた学生たちが、一八七六年「奉教趣意書」に署名したことに始まる。なかでも同志社を七九年に卒業した小崎弘道、宮川経輝、海老名弾正、横井時雄、金森通倫(みちとも)、山崎為徳(ためのり)、浮田和民、不破唯次郎などの第一期生(十五人)は全員が熊本洋学校の出身者であった。その信仰は概して国家主義的で、ミッションからの経済的独立に熱心であった。新神学にもいち早く傾斜した。『七一雑報』『六合(りくごう)雑誌』、『新人』『基督教新聞』などのキリスト教系メディアで活躍をする者が多く出た。


 なお、登場する人物の名前ですが、小崎弘道、宮川経輝、海老名弾正は同志社系の日本組合基督教会の三元老と言われ、その柱でした。小崎は同志社の二代目の社長、海老名は八代目(そのころは総長ですが)として知られています。横井時雄は三代目の社長、金森通倫は晩年の新島襄を補佐した人です。山崎為徳は同志社英学校卒業後、学校に残って英学校の先生になるのですが、二十四歳で亡くなっています。また浮田和民は後に早稲田大学の教授となります。早稲田サイドから「同志社からの輸血」と言われた中心的人物の一人です。不破唯次郎は新島の最後を見とった人の一人です。前橋女学校校長を務め、晩年は京都平安教会牧師を為し、最後に失明しています。
横井小楠





Seong Hwa Ceremony

AULA 02 - EU VOU PASSAR NA OAB - DIREITO PENAL E DIREITO CONSTITUCIONAL


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